人文知と専門知 つむがれる戦争の記憶と私たちが生きている意味

人文知、専門知、という言葉があります。

人文知とは、目には見えない内面的な問題を明確にして理解するための視点を提示する教養のことを指すのではないかと、わたしが調べた限りでは、そう思いました。

専門知とは、実用的なものであり、実利を得るために必要な知識、技能といったような目に見える利益を出すための専門的スキルを指すようです。

 

資本主義においての消費文化が活発になると、目先の利益が優先されることは当然なのでしょうが、表面的なことを存分に満たしていたとしても、後まわしにしていた目には映らない領域のことを、やがて思い出します。

ある日突然、「自分はなにがしたかったのか」「なにをすべきなのか」「なぜ生きているのか」という問い続ける声が心の奥底でひびいていたことに気がつくのです。

色鮮やかなリアルさ、蘇る記憶と伝わってくる情動

東京大学の教授と学生が、記憶の解凍プロジェクトとして、戦争の時代を生きた人々の記憶(白黒写真)を、人工知能と写真の持ち主の証言や資料をもとに色鮮やかに蘇らせたそうです。

その写真のことを知って見たとき、人々の命の輝きがリアルに感じ取れ、心臓の音までも放たれているように映りました。その写真は「戦争で起きたことは見えない過去の出来事として埋もれさせるべきではないのだ」と、静かに語っているようでした。

 

わたしと同じような子持ちのお母さんと思われる女性が、家族と一緒にタンポポ畑で微笑んでいる写真からは、その女性が戦争をどのようにとらえて、どのように生きたのだろうと想像してしまいました。

原爆投下のきのこ雲の色も、そのなまなましさから、つい最近起こった出来事のように錯覚してしまいそうです。

真っ赤に熟れたスイカを楽しむ家族写真からは、その鮮やかな赤色と家族全員の笑顔に、昨日わたしが家族と一緒に食べたスイカのみずみずしさを思い起こさせます。

 

戦争は自分と関係ないと、心のどこかで思っていたのだと気づかされました。話の中だけのものと思えなくなり、自分自身の現在とを、知らず知らずの内に照らしあわせてしまうチカラが、そこにはあるように思えました。

まるで、目の前でその出来事が起こっているように映るのです。

人文知とはきっと、この色鮮やかな写真から感じ取ったような、人々の人生や価値観を汲み取るためにも必要な幅広い教養なのだと思うのです。

戦争の記憶もきっと、ただ伝えていくだけでなく、そこで生きた人たちの息づかい、心臓の鼓動、流した涙、通り過ぎ去った感情、押し殺してた思いなどを包み込み、自分の経験と照らしあわせて人の気持ちを推し量ってみる。

 

目に見えること、聞いたこと、知ったことに限らず、その背景、歴史を想像して考え、その上で本質を深く求めていくことも、必要なのかもしれません。

そうしなければ、おそらく教科書の上での出来事として捉えるような、上っ面だけをなぞるような伝わり方にしかならないのかもしれません。

 

解決の糸口を見つけるという点では、人文知も専門知も目的は同じなのでしょうが、得る結果、捉える視点と導き出す答えが違っているのでしょうか。

当時を生きた人たちの人生を、自分の中で再現することで培われるもの

生きたくても生きられなかった人たちがいたのだと、その方々のおかげで、命が繋がれていることを自分の中の出来事として捉えると、自分の中の魂がピリピリと刺激を受けるような感じがします。

いま自分の目の前で起こっている小さないざこざも、大きく広い歴史の中では本当に取るに足らない出来事だったとおしえてくれます。

 

人生を生きる上で、時にはがむしゃらに、ただひたすら専門知に頼り、進まなければならないときもあります。

自分の持てる力をすべて出し切ってもがき、精一杯あがいたあと、訪れる空虚。

その虚しさから人間ひとりのチカラには限界があったのだと知り、そうして見えてくる道があるのです。

 

人文知とはそのようなときに、心からの問い続ける声に応えるための光の糸口を示してくれる大切な教養なのかもしれないと、自分の中ではそう解釈しました。

変化が大きい現代において、目に見えない精神を広くサポートしてくれる教養が重要になってくる場面は、今後も多くなるのではないかとも思いました。

出来事の背景に隠れている関わってきた人たちの、思いと人生に気づく

昭和初期の日本の戦争については、言葉にはしがたい、あまりにも悲惨な光景を想像してしまうため、数年前まではあまり見つめることができないままでした。

それに比例するように、当時の人々の魂の底から国や家族を守ろうとする人々の精神の尊さは、まぶしいかぎりでした。

はだしのゲンのコミックスもその描写のリアルさに怖くなり、当時、小学生だったわたしは1巻を読んでいる途中で本を閉じてしまいました。それ以上、読み進めることができなくなりました。

大人になると、夏を迎えるたびに組まれる新聞での戦争特集を読みはじめ、当時を知る方々の記憶の継承は、記事によって少しずつわたしの中にもインプットされていきました。

教科書を通して知った戦争。遠い過去の出来事のように思えもする戦争を体験した人々のこと、歴史、生活事情を知る回数が重なるたび、やはり今の自分が在るということには、感謝しかないのだと改めて思ったのです。

気だるい夏の午後、こうして子供たちと他愛もない日常をゆっくり噛み締めることができているのは、英霊たちが命をかけて日本を守ってくれたからに他なりません。

戦争を経験していないわたしは平和を体験している、わたしの命は誰にも脅かされることがない、彼らの願いは「いまここ」にある。

その事実しかないのだと思うのです。

人はなぜ生きるのか、いかにして人生を生きていくべきなのか

人間が永遠に追い求めつづけるであろうこのテーマは、自分の人生の体験を通すことで、ようやく答えと思われるものに出会えるかもしれないと凡人のわたしは思うのです。

これだ!見つけた!と思っても、あとになって「ちょっと何かがちがうのかもしれない」と再び探求の旅に出ることの繰り返しです。

そんなことを探していたのだということすらも忘れた頃に、何かのきっかけでその答えのヒントとなるような出来事がおこり、「あぁ。そうだ。それを見つけたいと思っていたのだ。」と目を閉じ意識の中を再び探りだします。

 

以前とは違う自分からは、いま何が見えるのだろうと、いつもいつも再び求め始める毎日です。

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