もう捨ててしまったつもりであった過去の記憶が、何かの拍子に思い出される事があります。
それも、私にとって非常に大きな心の傷となった出来事です。
父親から心無い言葉を投げられて悔しくて泣いた事、母親に私よりも世間体に合わせた選択を無理やり押し付けられて悲しかった事、
昨日まで仲良く話していた友人が急に冷たい態度を取ってきて、仲間外れにされて惨めになった事、どうしようもなく好きになってしまった彼と、やはり一緒になれなくて寂しかった事・・
彼らにも様々な事情があったでしょうし、もちろん、悪い面ばかりでもありませんでした。
恨みの気持ちも全く残っておりません。
今を生きることに決めた時に、過去は全て捨てたつもりでいましたが、まだ私の潜在意識の奥底には、これらの記憶が残っていたのでしょうか。
カルマ(業)との関係
自分の思い通りにならない世界や自己イメージが低くなる経験は、幼少期からずっと味わってきました。
母親が浄土真宗の寺の保育園に勤めており、自宅には仏教関連の本やマンガがありましたので、引き寄せの法則に出会うより以前は、仏教系の教えや考えから、悩みの解決のヒントを得ておりました。
そこでカルマ(業)という言葉も目にしてました。
この時点での私は「カルマとは前世の善い行い、悪い行いが今世でも引き継がれ、受け取る仕組みが宇宙にあり、今世の行いは来世にも持ち込まれるものである。これは因果応報である。」という風に解釈しておりました。
そのため、今、自分が辛い状況なのは、もしかすると前世で私が、他の人に対して非情な態度で接していたからかもしれない、それの報いを今世で受けているのだ、と捉えていました。
しかし、世界の宗教や、宇宙にある数々の法則、素粒子、周波数、意識たちの存在を知った現時点では、カルマに対しての考え方も変わってきております。
幼い頃は、過去に戻ってやり直したいと思った事もありました。
けれども今は、たとえ前世にまで戻れたとしても、何を変える事ができるのだろうかと、半ばあきらめの様ではありますが、執着する事もなくなりました。
その当時の私の精一杯の選択として、結局、同じ道をたどって行くのではないか、とも思えました。
カルマは確かにあるのかもしれません。そして、広い世界、深い宇宙で見たときの「カルマ」は、もっと別の捉え方や、多次元の視点からの意味が存在しているのかもしれません。
そんな中、私が人生を良くするためにできる事は、現時点で変えられない前世や過去、来世や未来について悩んで時間を使うよりも、今この瞬間の私をより良くするために、学んで行動する事に命を注ぐ事だという考えに、今は落ち着いてきております。
この一瞬の自分に集中して、望むものを引き寄せていこうと、新しく生まれ変わっているつもりではおりました。
幸せのタネをまく
目に見えない不思議な力や法則、意識たちが、この世界には存在していて、私たちはその仕組みから逃れる事はできないのだと思っております。
それらは死んだ後の魂にも働いている様に感じます。
そのシステムを造られたのは神さまなのでしょうが、人間が輪廻転生して繰り返し生まれ変わって、カルマを背負い生かされているとしたならば、一体、何をなされようとしているのでしょうか。
今、勤めている会社でも歯車の一部として扱われていますが、この宇宙においても私は何かの歯車の一部なのかなと一瞬、寂しく考えてしまいます。
それでも、神さまや宇宙は、私が望んだ時に、ちゃんと道を示してくださる存在だと、信じたい気持ちもあります。
生まれてから今日まで、たとえ私が悪い事をしてしまっていても、幸せをプレゼントしつづけてくださっていたからです。
大人になった今も、この世にある芸術や文学、発明や学問、コンピュータの分野において、いたるところで神さまや宇宙の神秘を目にする事があり、その度に感動で心が動かされます。
植物や動物、人の優しさや思いやりからも、愛や感謝をいただいてます。
神さまと宇宙は、この世界で幸せのタネを育てておられました。
なので、最終的な何かの目的のために生かされているとしても・・
この世の愛と感謝のエネルギー全てを信頼できる人間で在りたい。
自分の望む世界は、カルマにも振り回されずに引き寄せられる人間で在りたい。
そんな風に考えております。
自分の潜在意識の中の悲しみの記憶たちは、まだまだこれからも出てきそうです。
その子たちには、全ての出来事に、良いも悪いも、幸せも不幸というものも無い事を伝えて、それらを光輝くタネに変容させていこうと思い直しました。