恋愛成就祈願のための参拝で得たまなび。目には見えない仕組みの世界に私たちは住んでいる

人間とは、嬉しいことが続いて絶好調の時は、目に見えず触れることもできない、いわゆる物質以外の存在のことは、さほど気を向けなくなります。

しかし、不安や恐怖、心配事が大きくなればなるほど、神社やお寺でお賽銭を入れてお願い事をしたり、ご祈祷したりなど、目に見えない存在に頼りだす傾向が強くなります。

苦しいときほど、神頼みしてしまいます。

 

私もかなり以前ですが、どうしても恋愛を成就させたい一心で、有名な縁結びの神社をいくつか巡ったことがありました。

結果、結婚はできましたが、それ以上に得た貴重な体験と気づきがありました。いま振り返ると、この体験と気づきの方が大事だったのだろうと思うのです。

神社参拝で得た体験と気づき 願望に振り回されないために

広島県の嚴島神社、島根県の出雲大社はパワースポットとしても有名です。

そこに恋愛成就祈願のため、お参りに行った時の話です。

この神社を選んだ理由は、当時、失恋しか経験したことがなく惨めだったわたしは、相思相愛で結ばれる経験を得たく、縁結びとしても有名な神社に参拝してパワーをいただきたいという想いが非常に強くありました。

また、今までに母親と2人で旅行をしたことが無かったため、ゆっくりと過ごす思い出をつくっておきたいという気持ちもあり、計画を立てて長距離移動の旅行に出発しました。

◇ 嚴島神社

◇ 出雲大社

母親はすごく喜んでくれました。

嚴島神社では海の中の真っ赤な鳥居を、出雲大社では巨大な「大しめ縄」を観てきました。母親と共にこれらを目にすることができて、わたしも本当に嬉しかったです。

嚴島神社の浜辺は、潮が引くと潮干狩りをされる方々が来られました。鹿たちが道を歩き、のんびりとした時間を久しぶりに楽しみました。

道中はとても楽しく、悩みすぎて暗かったわたしの顔も自然と笑顔になっていき、深刻に思い詰めていた心は、外の空気や自然の景色によって癒されていきました。

神社に着くころには、気持ちを新しく切り替えられた状態でお参りができました。

「自分の願いが叶うことで家族、特に母親を安心させてあげれるので、そのように行動します。どうぞ見守っていてください。」と神さまに心の中で伝えました。思考の切り替えも、いつの間にかできていたようでした。

もしかしたら、これが良かったのかもしれません。

旅行後はトントンとわたしの結婚の話が進んだのです。

いま振り返っても不思議なのです。旅行中は出来事ひとつひとつ、その瞬間瞬間すべてに感謝できていた状態でした。(旅行自体も楽しくて、ハイテンションになりすぎていたかもしれません(^^; ))

叶えたい願いに囚われすぎてもいなかったので、目に見えない不思議な世界の存在たちと運良く触れられたのかもしれません。

目に見えず触れることもできない存在たちがいるということを改めて認識し、せつなを感じ、そこに感謝の念を送って満たしながらも、願望成就に向けた行動も起こしていくこと。

これらをバランスよく組み合わせることが、きっと大事なのだろうなと考えてます。

 

見えない世界に頼りすぎても、現実世界の行動のみに偏りすぎても上手くいかないようだということは経験から分かってきました。

この旅行の数年前に、かなり思いつめた表情で、別の恋愛成就の神社にお参りに行った時がありました。やはり全然叶いませんでした(笑)

何事も「ちょうど良い」のがいちばんです。偏りすぎると心身だけでなく現実世界にまでも影響が出て崩れてしまうのです。

 

ちなみに、11月の神無月に厳島神社と出雲大社に訪れていました。

出雲大社のある島根県だけは11月は「神在月」と呼ばれます。全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲に集まる月だったのも良かったかもしれません。

目には見えない存在と共存していくために

私の祖父の話に変わります。祖父は、私が物心ついた時にはすでに身体があまり動かせず、寝たきり生活でした。

祖父は毎日お風呂に入れなかったので、その身体に触れると、こもったような匂いがしました。

祖母が介護していましたが、当時は高機能な介護ベッドなど無く、布団の上での介護でした。

布オムツが当然で、大人用の大きな布オムツを毎日洗う必要があったのではないかと記憶しています。

祖母も腰が痛いのに、時々、祖父を引きずりながら浴室に連れて行き、その身体を洗っていました。

 

母親が手伝おうとするのですが、祖母は昔気質で頑固な面がありましたので、助けを素直に受け入れられずに拒否していました。

でも母親は、おじいちゃんが家族全員の病気を代わりに受け取ってくれてるから、おじいちゃん以外の人はみんな元気なんだよと言っていました。

 

数年後、祖父が死んで火葬された後の白い骨には、うっすらと淡いピンクと薄みどりが色付いてて綺麗でした。

本人が飲んでいた薬が、火葬後の骨に色を浮かび上がらせるのだと火葬場の人が説明していました。

この時、わたしは思いました。

「あぁ、そうだ。人間の身体には骨があったのだ。こんなに白くて美しい骨が。私たちの身体を、生まれてからずっと、何十年も支えてくれているのだ。」

「わたしは自分の身体を太っているとか痩せているとか、もうちょっと背が高かったらとか不満ばかり漏らしていた。今までに自分の身体に感謝の言葉ひとつかけた事があっただろうか。」

目には見えないものとは、天使とかハイヤーセルフとか、神さまとかいうような精神的な高みの存在のみに限らず、普段の現実世界にも在るのです。

いつでもわたしたち人間を支えてくれています。

それが当たり前のことになりすぎて、いつの間にか見えなくなってしまっているだけなのです。

目に映るものだけが全てではない。その背後にあるものを感じとる力が重要

数年前に祖母も他界しました。その翌年には父親が亡くなりました。

お墓の中はきっと賑やかになっているでしょう。母親はこまめに仏壇を綺麗にするようになりました。

 

そういえば、墓参りを欠かさない家は代々栄えると聞いた事があります。

また、大昔の中国などでは、敵の家を途絶えさせる為に、その家の墓を破壊していたそうです。

墓の中には死んだ人の骨しか残っていないはずなのに、昔の人はそれ以上のものを感じ取っていたのでしょうか。

墓を大事にする心が現代まで受け継がれているという事は、目に見えない存在をないがしろにできないという証明にもなるのではないかと、わたしは考えます。

 

祭りや厄払い、初詣や年忌法要・・見渡せば私たちの周りには、人間以外の世界と共存している証がたくさんありますね。

人間の目で見えるものとは、そもそもこの宇宙に降り注いでいる光線の中の、ほんのひと握りでしかなかったという証なのかもしれません。

おすすめの記事