スピリチュアルとは何でしょうか。
わたしは、自分の心との対話から浮かび上がってくる小さな声に気づきながら、それらをすくいあげ、人生の道をたぐり寄せる過程そのものだと考えます。
感情に身をまかせて行動できるのであれば、どれほど楽か。
わたしの場合は当初、自分に潜んでいた人間の煩悩むき出しの気持ちと真正面から向き合うことが、スタートだったと記憶しています。
本能を知り、それと同居している体内に宿る精神に気づき、魂の声を聴く。
時間をかけて段階を得ながら、じっくりと変容していくプロセスが、スピリチュアルな生き方のひとつなのだろうかと思うのです。
苦しみ、悩み、執着、劣等感とは幻想だった
辛いことやイヤな気分になることって、ありますよね。
変化の波や数が大きくなればなるほど、もがき苦しみ、沈みきって戻って来ずにそのまま腐ってしまうことを選択することはできます。
それらから逃げないで(もちろん、逃げてもいいのです。そのあと戻って来ればよいのです)未熟な自分もすべて受け止めると、腹をくくることもできます。
ところで、「苦」に対する考え方や「劣等感」を感じる心とは、どこからくるのでしょうか。
自分に問い、考え、状況を柔軟に受けこなす幅の広さや奥の深さを知るようになると、悩むことや執着すること自体が徐々に減り、周囲との境界線をはっきり引けるような気がしています。
あぁ、わたしってこんなことで悩むんだな、自分のことを○○だと思っていたんだなと気づくこともできます。
むしろ、気づきを与えてくれる「苦しむ状況」を喜んで受け入れられるようになる?のかもしれません。
わたしの場合は、自分の人生に覚悟と責任を持つと決めたときに、これが訪れました。
血の気が引いて真っ青になった頭と身体と震える手で、目の前の現実を受け入れ、自分自身の未熟さと、次々とわき上がってくる感情と、自身に対する容赦ない責め、劣等感を目をそらさずに見つめました。
くやし涙でぐちゃぐちゃになった顔で、時間は必要でしたが、自分の惨めさと情けなさをすべて受け入れました。
そうしてある日、今までと頭ひとつ分くらい違った、別の思考ができるようになっているようだと気づきました。
一見不幸に見える状況こそが、自分の成長のチャンスになるのだと、今ではそう捉えています。
もしかしたら失敗の機会こそが、飛躍するためのカギなのかもしれないと、そう気づいたのです。
苦境や絶望を体験した人にしか手にすることができない、人生の宝だと知ってしまったのです。
今でもそのような体験をすると「あぁ。やっぱりやだなぁ。」って思っちゃいます。まだまだ未熟な人間ですので。
でも、一晩寝て翌朝には割とすっかり忘れてしまえるようになりました。状況によっては2〜3日引きずることもありますが、今のところは消化できてます。
自分の気持ちをしっかりと受け止め、じっくりと味わい、ではどうしていきたいか、どうするべきかと自分自身と会話するコツが、完全では無いにしろ多少なりとも心がけることを続けることで、軌道修正ができているのかもしれません。
自分自身と向き合う時間を作る大切さは身に染みました。
あとは、思考やものの捉え方を先に整えることが、次の行動と結果を呼び寄せる、つまり未来の選択につながるとも信じてもいます。
このことは、わたしが今まで人生で苦しむたびに出会えてきた良書の中で、偉大な人物がおしえてくれた言葉の数々から、知ることができました。
もちろん、信頼できる友人と心から語ることによっても、自分自身の本心に気づけます。
この世での自分自身の1番の理解者とは
このように、なかなか気づけなかった奥底に隠れていた気持ちや思い、考えを知ることは、この世界で自分自身の一番の理解者になるための重要な一歩だと考えます。
人に受け止めてもらうのではなく、自身で理解して納得した上で受け止めるのです。
成長の機会とは、生きているだけで日常の普段の生活から常にいただいています。
これらの繰り返しにより、視界が徐々にクリアになり広がります。
見えていなかったものをしっかりと観て、その中で生きる存在たちに気づいて行くこと。自分の中にひそむ劣等感ですらも、もうあなたを止めることはできなくなります。むしろ、成長の材料としても活用できてしまうのです。
人生を真剣に丁寧に生きることは、自分の心の一番の理解者でありつづけることであり、スピリチュアルに息づいた生き方のひとつではないだろうかと、わたしは考えてます。
2020年9月 つきぼしRio
※ 自宅付近からみた風景。とおくに連なる山々と雲のかがやきが、目にまぶしい。手前の家々のあいだから飛び出る電信柱のかたちは、偶然にも十字架に見えなくもない。白と黒のコントラストの強さが、その印象をさらに深く焼き付ける。